虚偽と真実
岡本幹輝
「ウソをつくな!」という言葉は、いつの世でも、どこの国でも通用する戒めの言葉である。宗教においては尚更のこと、キリスト教の旧約聖書モーセの十戒の中でも「偽証するな!」と、また仏教の五戒の中でも「不妄語!」と強く戒められている。
しかし、世界ウソつき大会で、「俺はウソをついた事などない」と言った発言者が優勝したという有名な笑い話があるほど、今までにウソをついた事は一度もないと言い切れる人など一人もいないのも事実である。たとえば、幼児がなかなか寝ようとしないとき、「早く寝ないとお化けが出ますよ!」と寝室に追いやるために脅かすのは親の常套句であるし、わざわざ着飾って都心に芝居や映画見物に出かけようとしたときに、途中で近所の人から「どちらへ?」と訊かれて「チョッとそこまで」と挨拶するのは日常的ですらある。内心では嫌っているくせに、逢えば親しげに会話を交わし、そうとも思わないのに「あなた綺麗ね」などとお世辞をいうのもウソをついたことになる。スポーツの試合で相手をフェイントや隠し球などで欺くのも、許されたウソである。トランプのポーカーでは、ウソをつくのがゲームである。映画、芝居、手品、落語などの演芸や小説、コミック・マンガなどの文芸作品は、約束事としてウソを受け入れている。
このように明らかにウソと解っているのだが、潤滑に世渡りをする上で必要な罪のない社交的儀礼の道具としてのウソや、一定の競技やゲームのルールの上や約束事として許されたウソは、悪気のないウソとして誰でも日常的につくであろう。しかし、同じように本人には悪気はないのだが、誤解して真実だと思い込み、結果としてウソをついてしまう場合もある。この場合には悪気がないのだから責任はないというわけにはならない。間違った情報を伝えられた人がその情報に従って行動すれば、その人に迷惑がかかり、命に係ったり、大きな損害すら蒙る場合すらあるであろう。真犯人でないのに勘違いで間違った証言をすれば、その人を罪に陥れることになる。大量破壊兵器を隠しているからと信じ込んで他国に攻め入り、元首を捕らえて殺すなどの行為は、後からウソと判っても取り返しがつかないことになる。
このような真実だと思い込んだが実際はウソだったという間違いが、軽率で無思慮な人の冒す間違いだとは、一概に言うことはできない。思慮分別もあって社会的にも尊敬を集めている学者や聖職者が間違い、全ての人々がその間違いに追随したこともある。かつて大地は平面だと信じこまれていた。宇宙は地球を中心に回転していると思われていた。球面を前提にしないユークリッド幾何学では、二地点間の最短距離はその間を直線で結べばよいとされていた。これらは今ではみんなウソないしそれに近い扱いを受けている。それよりも、今われわれが真実だと信じ込んでいる事物が、科学の発達により近い将来ウソだとされるようになるだろう。
こうなるとウソをついてはいけないどころか、政治の場だけではなく世の中は全てウソだらけで、むしろウソをつかない方が珍しいということになりかねない。結局、悪意があろうが無かろうがウソをついてはいけないのは、社会的儀礼や約束事ではなくして、自己の利益に繋がったり他人に不利益を与える結果を招くような場合だけ、ということになりそうである。 以 上 |