発言と発言者
岡本幹輝
私達は、何かの発言を耳にしたときには、その言葉は誰が言ったのかを知りたがる。そして、それが権威のある人の発言だと知ると、「成る程」と感心したり、納得して賛意を表わすことになる。ところが、同じ発言が日ごろから重きを置かれていないか、あるいは敵意や軽蔑の対象となっている者の発言だと判ると、途端に反撃の矢を浴びせ掛けるか、無視を決め込むかする。
この態度が悪いとは一概には決め付けられない。なぜならば、発言なるものは、発言者の長い年月を経て形成された思索や全人格的な発露ともみなし得る重いものなので、同じ言葉でも、誰が言ったのかによって、意味合いが異なってくることがあるからである。
大文豪が死の床で「もっと光を!」と言ったとすれば、其の言葉は混迷の世の中にもっと理性の光を当てたいとの思いを述べた遺言と解釈され得るが、凡人が言ったとすれば、「あら暗いのね」とばかりに、病室のカーテンを開いたり電灯のスイッチをひねったりされるだけであろう。落語の世界では、こんにゃく屋の亭主を高僧と取り違えて禅問答を挑んだ旅の僧にとっては、日常的な会話が深遠な哲学を含んだ意味深いものになる。
権威のある人の発言だと無条件に受け入れるという態度には、二つの種類があろう。一つは、受け入れる側が発言の内容に賛同したのではなくして発言者の権威に迎合する保身からのものであり、もう一つは、受け入れる側に判断能力がなく自分だけでは決めかねていたところ、権威者の発言を聞いて、あの人の言うことなら間違いがなかろうと盲従するものである。どちらにせよ誉められたものではなく、自立心の確立や価値観の育成を欠いた情けない態度である。
かって、こういう会議の場面があった。予め検討してくるよう求められていた、複数の選択肢の中から一つを選ぶという決議案について、若手の出席者が、議場の空気に反した案を支持する旨の発言をしたところ、「お前はいつでも反対にまわる!」「青臭い意見を言うな!」「だからお前はダメなんだ!」と総タタキにあっていた。ところがそのとき、その場の状況を知らないで遅れて議場に入って来た大物が、忙しくて時間がないので自分の意見だけ述べて失礼させていただくと断ったうえで、「実現には困難を伴うかも知れないが、難局を打開するにはこの案しかないと思う。何か意見があったら聞かせてくれ」と、なんと先ほど若手の出席者が支持した案をそうとは知らずに推す旨の発言をして、立ち上がって議場を眺め渡したところ、誰も発言する者がいなかったので、自分の意見が異議なく受け入れられたとして満足して退席して行ったことがあった。後には気まずい空気が流れた。先ほどの若手の発言者も、我が意を得たりとばかり得意げに鼻をうごめかせていたが、後での報復を恐れたのであろうか、その場では何も言わなかった。
このように、とりわけ出席者一人一人の立場が平等に保証されている会議の席などでは、
誰が言ったのかによる発言の扱い方の違いや、「そういう発言はないぞ」とかの発言者の態度をあげつらうことはやめて、マックス・ウェーバーのの態度を見習って、ひとまず発言の中身だけを対象にして客観的に検討する姿勢が大切ではなかろうか。いや、会議以外の場所においても、そのような心がけが必要であろう。
(権威のない私の拙論ではありますが、どうか、ご熟読願う次第です) |