意志強固と強情・頑固
岡本幹輝
「あの人は意志の強い人だ」という評価と「あの人は強情な人だ、頑固な人だ」という評価とでは、そういう言葉を使う人がどれほどその表現の違いを意識しているのか疑問である。何となく、意志強固という表現の方には尊敬の念が含まれるのに対して、強情・頑固という表現の方には扱い難い、始末に困るが仕様がないなあという諦めに似た念がこもったように感じているのではなかろうか。したがって厳密に両者の表現を区別しないで、プラスの好意的評価を相手に下したい場合には意志強固という表現を使い、また逆に、マイナスの否定的評価を下したい場合には、(明からさまに否定的な態度を相手に示すことに躊躇いを感じるのが一般の日本人は、)愛すべきという意味合いをも含んだこの強情・頑固という表現の方を使うようである。
しかし、これは定義の問題に属することなのではあるが、意志強固と強情・頑固という用語の使い方ははっきりと区別すべきである。一般に人が何らかの決断なり選択をする場合、二つの立場がある。一つは、何が正しいのかという理性的観点に立って、つまり理屈に適った(reasonable)説明ができ相手を説得することが可能だから決断・選択する立場と、もう一つは、理屈は通らなくても「嫌だから嫌なんだ。何か文句があるのか!」といきりたって感情に走った決断・選択をする立場とがある。前者の理屈に適った決断・選択のできる人が意志強固な人なのであり、後者の感情に走った決断・選択をする人が強情・頑固な人なのであって、両者ははっきりと区別されるべきである。理性が感情を抑えられるのか、逆に、感情が理性よりも強いのかの差である。
このように定義づけると強情・頑固と評される人は立つ瀬がないことになりそうであるが、そこは情の国である日本のこと、「頑固親父」とか「強情張り」という評価は、前述したように、どこか憎めない愛すべき人という受取られ方もあって、逆に一方で意志の強い人の方は冷たく人情を解釈できない人という見方もできて、必ずしも強情・頑固な人が否定されるというわけではない。
夏目漱石の小説「草枕」の冒頭に『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい』と言う名文句がある。これは知・情・意という人間の精神の三つの構成要素について述べたものであるが、この場合、情というのは感情の場での消極的・同情的態度をいい、意地とは積極的・反抗的態度をいうものと解釈し、いずれも強情・頑固な態度を意味するものと見做しうる。そうだとすればこの名句は、意志強固と強情・頑固の二分類に収斂することができ、漱石がそのいずれにも行き過ぎがあることを諷したものとして、日本人の人情の機微を巧みにうがったものということができよう。つまり「過ぎたるは及ばざるが如し」、極端はいけない、中道がよいということになるのだろう。中国では歴史上有名な事件として、蜀の丞相の諸葛亮孔明が出師の陣で、軍紀を冒して大敗した原因を作った亡き親友の子で、幼いときから目を掛けてきた馬謖を規則通り処刑して泣き崩れたことが『泣いて馬謖を斬る』という句とともに三国志に出ている。理と情との相克の中で意志強固にも理の方に従いつつ、なおかつ一人の人間として情の発露も見せたのである。。
人によって他人をどのような表現を用いて評価しようが自由であるが、しかし、この二つの表現の定義づけに基づいて行って貰いたい。 以 上 |