儀式
岡本幹輝
私は儀式が嫌いである。それも、(半)強制的に列席させられて、意に染まない行動(パーフォーマンス)を列席者に対して強制的に課せられる儀式が嫌いである。起立させられ、敬礼させられ、歌い唱えさせられ、行進させられたり、順番を発声させられたり、面白くもない話を次々に長々と清聴させられたり、挙句の果てには、その場で何かを全員一致の名の下に決めたことにされるのは、とりわけ逃げ出したくなるほどに嫌いである。その場に当たって俺はイヤだ、反対だと声に出し、態度で示せば、式場から強制的に摘まみ出されるか、場合によっては厳粛な儀式を妨害したとして刑法(第188条)や軽犯罪法(第1条5,13、又は24号)などの罪に当たるとされる危険性もあるし、なによりも、大勢の前でそのような意思表示を単独でするには相当な勇気を要し、奇矯な振る舞いだとされて、親族や友人・知人との信頼関係を損なう虞れもあるので、その場では黙って従うより他に仕方がない。
もちろん、列席していてもそれほど不快感を伴わないどころか、むしろいい気分になるような儀式もある。親族や友人の結婚式とか子や孫の誕生会などである。それどころか、立場上、私が主催しなければならない儀式すらある。親の葬式や忌日などの仏事や子の初詣や七五三などの神事である。このような時には、私はできるだけ参列者の心の負担を排除するように気を使うことにしている。一人で行う儀式もあるが、その場合にはイヤならばしなければよいのだから、好きだの嫌いだのと言っている問題ではないことになる。
「儀式」を広辞苑で引くと、『公事、神事、仏事または慶弔の礼などに際し、一定の規則に従って行う作法。また、その行事』と出ており、英英辞典でCEREMONYを引くと『重要な社会的又は宗教的イベント。そこでは一連の伝統的な行為が形式的なやり方で執り行われる』という意味に定義されているので、一人でも儀式は成立することになる。しかし、健康や鍛錬のために繰り返し行うトレイニングのメニュウの消化などではなく、神棚や仏壇・祭壇に向かっての礼拝など、何らかの精神的な厳粛な気分の伴うものでなければ儀式とは言えないであろう。だからこそ、式場の雰囲気は法律で保護されているのである。
このように儀式が厳粛で神聖で侵しがたいものであれば、それを主宰する導師や主催者たるスポンサーの立場も、重々しく権威を持った侵しがたい性格を帯びてくる。一人で行う儀式ではなく組織が主宰する儀式では、組織の長や中枢にある者たちにとって、儀式は自らを権威づけ、反対者を黙らせ押さえつける手段として絶好の場となりうるのである。
本来、活発な意見を出し合って物事を決める会議の場が、出席者が多数になって自由な意見交換が出来にくくなったなどの理由から儀式化してきているのは、それを主宰する、秩序好きの既存の権力を持った人たちにとって好都合なのである。独裁者ほど儀式が好きだと言われている。もともと政治は祭りごとと言われるように、その淵源は祭事(儀式)にある。それを主宰する権力者が侵しがたい神聖な威厳を纏うのに必要なパーフォーマンスが、儀式なのである。 以 上 |