随筆集 生と死

■組織人

●作者のことば

●近況報告

 

白虹日を貫く

岡本幹輝

2001年9月6日夕刻、私は息子と一緒に、カナダのトロントからアメリカのデトロイトに向かう長距離バス“Greyhound”の車中で、右側の窓際に座って移り行く夕方の異国の風景を眺めていた。その日の早朝は同じくバスでボストンからナイヤガラに着き、壮大な瀑布を観ての帰りで、迂回してトロント経由だったのある。

 右側の車窓は西を向いていて、雲はかなり厚かったが、ちょうどその合間から沈み行く夕日が眺められ、旅情が慰められる思いだった。そのとき突然、太陽の右手に、虹の左端の断片が縦に現れた。私は愕然と身震いをした。不吉な思いが全身を走ったのだった。“何か悪い事が起こる!” とっさに私は、日本に残してきた家族、肉親に何か変事が襲うのではないかというように受け止めたのだった。本来であれば、その現象は、革命や武力行使などの政変のような、国家公安に関する事変の予告と見るべきだったのが、やはりそうとは思わなかったところに、吾ながら事に当たると、まず自己中心となってしまう姿を見出して、後になって思い返してみて、正直のところ少なからず恥ずかしい気がしたのであった。やはり、日本人である自分にとっては、長く平和な時代が続いているのだから、今頃戦争なんか起こるわけがないと思い込んでいたからだろう。

「あれを見なさい!」

私は、しばらくためらった後、隣の息子に指をさして示した。

「黙っていようと思ったんだが、めったに見られない光景なので言っておく。虹が見えるだろう。しかも、同じ方角に太陽も見える。虹は通常は、太陽の光が水蒸気に反射してプリズム現象で七色に分解して見えるのだから、太陽を背にしたときに見える理屈なのに、あのように太陽と並んで見えるのは、きわめて珍しい現象なんだ。実はあまり良いことではないのだよ。『白虹日を射る』と中国の古いことわざがあるのだが、何か悪い前触れなんだ。東京で悪いことが近々起こるかもしれない。」

 私はその時、そのことわざを誤って憶えていたのだった。私がその時に見た虹は、ちょうど太陽に向かって弓を引いているような形だったが、後で調べてみると、正しくは、格言は「白虹日を貫く」であった。そうであればその時のその光景は、虹と太陽が離れていたので、正確には違っていると納得させられたのだが、それでも珍しい現象には変わりはない。

 私が特別に漢籍や故事来歴に明るいというわけではない。この言葉が冠せられた事件は、現代日本史上で有名な出来事だったので、記憶していたからである。

1918(大正7)年8月26日、大阪朝日新聞(現在の朝日新聞の前身)の夕刊に、

 「 金甌 ( きんおう ) 無欠の誇りを持った我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉の兆しが黙々として肉叉を動かしている人々の頭に電の様に閃く。」

という記事が載った。「金甌無欠」とは、金で作った甕は欠けるところがない、そのように我が国は外国から侮りを受けることはないという皇国思想を表した熟語で、有名な戦時中の戦意発揚の歌「見よ東海の空明けて」にも使われている言葉である。また、「肉叉」とは食事で使うフォークのことである。この記事は、8月25日に全国の新聞記者の代表が集まって開かれた「関西新聞社通信社記者大会」を報じた記事である。ちょうどひと月ほど前、富山県魚津市の主婦たちの行動に端を発して全国的な暴動に発展した、米よこせの所謂米騒動を鎮圧するため、当時の寺内内閣は8月14日内務大臣通牒を発し、米騒動に関する記事差し止めを新聞雑誌に命じたのであった。この政府の言論弾圧に抗議して、各新聞社は結束して倒閣運動に乗り出し、このための、決起集会の趣をも持ったのがこの記者大会だった。

 この記事は、なんとも勇ましい激烈な語調で、まるで現在であれば野党の機関紙ででもあるかのような文章なのだが、当時は、新聞は藩閥政治に対抗する自由民権の旗手としての役割を演じていたので、どの新聞もこのような語調であった。それが、この記事をきっかけにして一転するのである。

 筆の滑り過ぎたこの記事を待っていましたとばかりに、官憲の通報を受けて内務省は、君主を暗殺しクーデターを唆す体制変革の革命思想の現われだとして、まずこの夕刊を発禁処分にするとともに、大阪朝日新聞の永久発行禁止を求めて裁判所に新聞紙法違反として刑事告発したのだった。慌てたのは朝日である。新聞の発行存続を求めて権力と妥協するために、社長以下、編集局長(鳥居素川)、社会部長(長谷川如是閑)は辞任し、そのほか多数の進歩的社員、記者、顧問らが退社し、あるいは追放の憂き目を見るようになる。

 かくて、政府の思惑通り、反体制運動の拠点は一挙に崩壊してしまった。大正デモクラシーも終焉である。この「白虹事件」をきっかけにして、当時の言い方で満州事変、二二六、支那事変、大東亜戦争へと、軍部独裁の翼賛政治にジャーナリズムも追随して行くのである。

 この格言の出典は私の知る限りで三つある。まず、中国の代表的古典である漢の司馬遷の「史記」巻八十三魯仲連鄒陽列伝第二十三に次の文がある。

「昔者荊軻慕燕丹之義、白虹貫日、太子畏之。」(昔荊軻ハ燕丹ノ義ヲ慕フ、白虹日ヲ貫ク、太子コレヲ畏ル。)

 荊軻とは衛の人で燕の太子の丹を慕っていたが、この丹に頼まれ、後の秦の始皇帝を刺すべく易水を渡って秦に入ろうとする。その時、白い虹が太陽を貫いたので、軻が心変わりしたのではと太子が畏れたというのである。なぜ丹が秦の王を殺そうとしたのかというと、かつては仲がよかったのに、その後立場が逆転した際に冷たくあしらわれたので、その事を根に持ったからである。同じ状況を、元の曽先之の「十八史略」にも別の角度から描写されている。文中の歌は有名である。

「乃装遣軻。行至易水、歌曰、“風粛々兮易水寒。壮士一去兮不復還。”干時白虹貫日。燕人畏之。」(スナハチ[貴人に紛]装サセテ軻ヲ遣ハス。[軻ハ]行ッテ易水ニ至ル。歌ッテ曰ク、「風粛々トシテ易水寒シ。壮士一タビ去ッテマタ還ラズ。」ソノ時白虹日ヲ貫ク。燕人コレヲ畏ル。)

 結局、軻は秦王(後の始皇帝)の暗殺に失敗して殺されるのだが、ここの部分の解釈で後の南宋の注釈書「史記集解」には、「精誠天感ズ」とあり、軻の意気は天を感動させたという解釈が普通である。

 やはり、漢時代(前漢末)の劉向の「戦国策」魏巻七にも,人物は違うがこの句が出ている。

「夫専諸之刺王僚也、彗星襲月、聶政之刺韓傀也、白虹貫日、要離之刺慶忌也、倉鷹撃於殿上。此三子、皆布衣之士也、懐怒未発、休祲降於天」(ソレ専諸ノ王僚ヲ刺スヤ、彗星月ヲ襲フ、聶政ノ韓魁ヲ刺スヤ、白虹日ヲ貫ク、要離ノ慶忌ヲ刺スヤ、倉鷹殿上ヲ撃ツ。コノ三子、ミナ布衣ノ士ナリ、懐怒イマダ発セザルニ、休祲天ニ降ル)

 ここでは三人の刺客が出てくる。刺客といってもギャングとか殺し屋とかいった悪い意味はなく、ここでは布衣、つまり無冠の庶民で正義の志を持ち、悪い権力者を廃しようとする義士であると言っている。だからこれら三人の怒りがまだ表面に現れず胸の中に秘められている段階において、天も感応して吉祥、祥瑞であるところの珍しい現象をそれぞれ示したというのである。三つの現象とは、一つは、彗星が月を襲うこと、ついでは、白い虹が太陽を貫くこと、更に三つ目として、青い鷹が御殿に撃ちかかったということである。「史記集解」では、白い虹とは兵の象徴で、日とは君を指すと解釈している。

 さて私はそれまで、「白虹日を貫く」という、反物理的な現象が実際に起ころうとは思っても見なかったのだが、その現象をそのとき異郷で体験したのは驚きだった。上の出典で見るように、もともとは、悪い意味や不吉な前兆というよりも、悪い権力者や政治を糺すという天の意思の現われと見るべきなのだが、権力者や為政者側の目から見れば革命(これも本来は天の意思で悪い政治を改めるという意味から来た用語なのだが)思想ということで、弾圧、排除の対象となったのであろう。

 カナダで白虹を見てちょうど5日経った9月11日の午前10時、私は息子と一緒にアメリカのアトランタ郊外ストーン・マウンテインの上で、ケーブルカーの開業を待っていた。その日朝、ホテルから地下鉄とバスを乗り継いで、2時間以上かけてこの250メートル程の岩山に登り午後はアトランタに戻って、コカコーラの工場見学をするつもりだった。岩山には登りは徒歩で、下りは反対側から山腹に刻まれた南軍の指揮官リー将軍の騎馬像を見たいとケーブルを待っていたのだった。ちょうど10時にシャッターが開けられ私たちは乗り場に向かったが、まさにそのとき、係員のトランシーバーが鳴り響いた。途端に彼の顔色が変わったのだ。

「テロリストがニューヨークのビルをアタックした!悪いけど手荷物検査を受けてくれ!」

 彼はハッキリとそのときにテロリストという言葉を使った。瞬間、私は、テロの予告通知があったのかと聞き違え、確認したところ、“actually”に攻撃されたと彼は言った。本部からの指示らしく、「初めての経験なのだ。済まない。」そう弁解しながら、彼は私の息子が持っていたリュックを開けさせてから、「乗車賃はいらないよ」と免除してくれた。私は、ニューヨークから遠く離れた南部の岩山で、しかもたった二人しかいない乗客がケーブルカーを乗っ取るという状況には、どう解釈してもなりえないとは思ったのだが、アメリカの非常時での対応を興味深く眺めていた。

 その後2時間ばかりしてアトランタの中心街に戻ると、警官隊が出て主要な道路は全て封鎖され、とてもコーラを只で飲むチャンスどころではなく、また、見る見るうちに先ほどまで開いていた商店が閉まりだし、昼飯を食べる店もなくなってしまった。コカコーラの本社があるというよりも、ニュース専門のCNNテレビ局が、この「風とともに去りぬ」の舞台にもなった南都の大都市にあるからなのだろうか。私たちはやむなく歩いてホテルに戻ったのだが、そこでは足止めされた大勢の泊り客がテレビを見入っていて食堂には入れないので、仕方なく自動販売機でコーラとポテトチップスなどを買って、室に戻ってテレビを点けた。

「これは戦争だ!」

 ブッシュ大統領が叫んでいた。

 おかげで、その後、私たちは這う這うの態で飛行機を乗り継いで、幸いにも何とか日本に予定よりも一日早く帰国でき、私の大学の講義にも支障を来たさなくて済んだのであったのたが(後で聞くと多くの日本人旅行者が何日もかけてやっとの思いで日本に帰り着いたとのことである)、既に購入していても飛行機が飛ばなかったので使えなかった“United Airlines”(この所謂同時多発テロ事件で飛行機を2機失っている)のチケットの払い戻し請求を日本の支社に対して行っても、“これは戦争なのです。 force majeure(不可抗力)なのです。”と支払いを拒絶されてしまった。このように私もテロの犠牲者の一人となったわけである。

 やはり、中国の古典は正しかったのだった。カナダでバスの車窓から見た虹は、まさしく兵乱の予兆だったのである。

以 上

Copyright (C) 1990- Okamoto Mikiteru . All Rights Reserved