随筆集 生と死

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自責と外罰

岡本幹輝

多くの人々は、勝負ごとに負けたり、事が予定通りに運ばなかったり、失敗や不慮な出来事に遭遇したときには、まず原因を自分の至らなさに求めずこれを他人の所為にしたり、運の悪さに結びつけ天を呪ったりする。これとは反対にごく一部の良心的で誠実な人が、まず自分が悪かったのではなかろうかと反省する。天を呪う場合はともかく、他人の所為にした場合には必ずその他人との間に一悶着が生じ、それまでは仲の良かった間柄が一転して不和となり、その原因が自分に在るだけに一生負い目を負うことにもなりかねない。天を呪っても挽回の力が得られるわけではない。

ボクシングや剣道の試合では、まず自分のガードや防御の姿勢を取ってから相手を攻(責)めるのが常道である。スポーツに限らず勝負事は全てそうであろう。自分の王様を囲わずに敵陣に攻め込んでも、惨敗するのは将棋の世界に限ったことではないであろう。

相手を攻める前に自分の態度を反省し堅固にするという姿勢は、相手からの反撃に備えよという意味もあるが、もっと重要なことは、自分の非や落ち度にまず気付くことがその後の自分自身の進歩向上に連がるという意味があるからである。

負けず嫌いという勝気な性格は生来のものであることが多いが、この性格は一概に悪い性格だとばかりは言えない。他人と争って負けたとき、自分の敗因を探りそこから自分の足らなかった点を見出し、力を補強して、この敗北から生じる劣等感をバネとして、再度相手と挑戦する契機が与えられたと受け止められるか否かが大切なのである。そうであれば、負けず嫌いという性格や劣等感という意識は、プラスに評価される。自分は悪くない相手が悪いのだと、いつも他人を責め続ける外罰的な姿勢からは、劣等感のみが肥大して、進歩は生まれてこない。相手を好敵手(ライバル)として互いに切磋琢磨する(自分を磨き上げる)姿勢が大切なのである。

中国ではその昔、春秋時代に呉と越が好敵手として相まみえ、勝ったり負けたりしたが、その都度負けた側の将は互いに臥薪(呉王の子夫差の場合)嘗胆(越王勾践の場合)して辛苦に耐え、終にはそれぞれが屈辱を晴らしたという故事があるが、これも自らを先ず責めることで力をつける姿勢からできたことである。もっとも、常に自分のみを責め続け、相手が右の頬を打てば左の頬も打ってくれと差し出すのはこれは宗教の聖人の世界のことで、さもなければ凡人は劣等感に苛まされ、結局は自尊心の欠如した、ひがみっぽい卑屈な人間になってしまうであろう。

以 上

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